欲望と、そのあいまいな対象たち

 双葉断層を見に向かう途中、自動販売機があり、そこに鬼滅缶が売っていた。中生代白亜紀の地層と鬼滅の刃が空間的に近接していることに、すこしの面白みと絶望を感じながらコーラを買った。いまになって思い出そうとすると、なにか見たことのない種類のコーラだった気がするけど、どうにも鮮明に思い出すことができない。味もベタベタと甘くて未知のおいしくなさだったような。

 わたしの眼は鬼滅缶を買いたがり、指も強いては反対せずそのまま鬼滅缶のボタンを押そうとしたのだが、わたしは鬼滅缶を買いたくなかった。身体に買わされている感がイヤ。ふと、目が見えないひとはコンビニで衝動買いをしないらしい、という伊藤亜紗の本にあった話を思い出す。

 イメージの快楽に買わされているな。コンビニ、山手線の車内、スマホの画面の中、それに双葉断層近くの自動販売機、どこを見ても視線の先には視界的快楽としてのイメージが待ち構えていて、欲望せよ、消費せよ、とこちらに語りかけてくる。広告や商品が見えなくなる眼鏡があったら快適だろうか、とか考えて久しぶりに『ゼイリブ』(ジョン・カーペンター監督/1988年)が観たくなる。これも眼差しの欲望。

 鬼滅缶みたいに他者が欲望するものを欲望するという心理はメディアやICTによって強化されるし、Amazonに至ってはわたしが欲しがっていないものをわたしの欲望としておすすめしてくる。他者の欲望と自分の欲望を切り分けて考えるには両者は渾然としすぎていて、自分の本当の欲望なんてものは正直わからないのだけど、鬼滅缶よりもおいしくないコーラのほうが飲みたいという欲望くらいはちゃんとわかっておいてあげたい。

 欲望といえば、ここ最近ずっとなんかタンザニアに行きたいなというふわっとした欲望を抱えている。観光したいという欲望は不思議だ。わたしがタンザニアに行きたいと思ったきっかけは小川さやかの本を読んだからなのだが、人類学の本を読んで逆カルチャーショックを受けた経験から、そこに行きたい、という欲望に繋がる回路が我ながらよくわからない。

  奥野克巳の本を読みながら、プナンのひとたちは観光の欲望を抱いたりするんだろうか、とか気になったのを思い出す。

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

  • 作者:奥野 克巳
  • 発売日: 2018/05/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  タンザニアのことを知らなければタンザニアを欲望することはなかったし、そもそもタンザニアがなければタンザニアを欲望することはできないのだな、と当たり前のことをなんとなく奇妙に思う。タピオカとかすごいな。キャッサバの根茎から抽出した澱粉を粒状に加工して飲み物に入れようとか、複雑怪奇な欲望だと思うし、それが流行っているのもすごい。まあおいしいしな。タピオカという言葉の響きというか、口に出すことの気持ちよさみたいなのもすごい。パピコとかと同じ快楽がある。パイナッポーアッポーペンとかも流行ってたし、パ行を言いたいという欲望がひとびとの中に強くあるのかもしれない。パラサイト、ポンジュノ。

 さっき(二週間前)ナポリタンを食べた海沿いの喫茶店の店主さんが、お客さんと話す中で「ここも一応観光地なんだけどね」と言っているのが聞こえてきた。どういう文脈かぜんぜん把握していないのだけど、確かに観光地であるはずのこの街には明らかに観光客がひとりもいないし、というか数時間散歩していても片手で数えられる程度しか人間に遭遇していない。たぶん人口密度より鳥口密度のほうがはるかに高い。鬼滅の刃が流行りまくっている一方でまったく欲望されていない観光地はたくさんあって、そしてどの観光地にも鬼滅缶を売る自販機はちゃんと置いてあるのだろうなと思う。