偶有性の幽霊

 空を飛ぶ夢の中で私は自らが鳥であることを疑いはしない。では目覚めた「私」が自らを鳥でないと認識する時、鳥であったはずの「私」は消えてしまうのだろうか。

 人間として、このような形で生まれてきてしまったこと。そしてあらゆる偶然性の結果が積み重なった上にいま存在していること。それらの、「私」が「私」であるという偶有性は、数多の可能だったかもしれない別の「私」たちを消し続けている。

 消されているのは「私」たちだけではない。カメラが現実を撮影しようとした際、フィルムに写すことができるのは、「カメラがそこにある」ことの影響を受けて変質した「現実」ならぬ「現実」だけである。そこにカメラがなければ、そこに自分がいなければ、存在していたかもしれない「現実」。そんな偶有性の幽霊たちの気配がそこかしこに漂っている。

 バタフライ・エフェクトのように極端に単純化した偶然性の積み重ねでさえ、その背後に数えきれないほどの幽霊、生まれ損ねた「私」や「現実」が存在することは明らかだ。自らの羽ばたきが引き起こした竜巻の影響など、蝶には知る由もないのかもしれないが。とはいえ、デモクリトスの原子論のような、決定論的諦念に救いを見出すのもあまりに極端な防衛反応だろう。「私」は「私」でしかあり得ない、「私」がそこにいることも含めて「現実」は予め決定づけられている、と考えるのは、おばけなんていない、と否認する態度に近い。偶然なんてないさと言いながら、だけどちょっと僕だって怖いのである。

 確かに偶然は怖い。『チェンソーマン』なら偶然の悪魔はたぶんかなり強い。自らの能動的な行動、例えば努力など、とは無関係に、偶然的に「現実」はやってくる。スポーツ選手が競技とは関係のない事故で引退することもあるだろうし、煙草をやめた翌日にまったく別の病気で死んでしまう人だっているかもしれない。そのような、偶然性が無意味に作動する現実の空虚さに人々が飲み込まれずにいられるのは、どこか別の可能性への想像力をある程度のところで切断していて、その有限性の枠内で充足しつつ、異なる現実の幽霊のことを諦めているからなのかもしれない。

 決定論的な世界においては、人間の意志が介在する余地はなく、だからこそあの時ああしていれば、というような未練や後悔の不快から逃れることもできるだろう。でもそこに自由はないし、偶然性の喜びもない。友だちとの予定がドタキャンになったからなんとなく入ったお店でずっと一緒にいたいと思えるぬいぐるみと出会う、みたいな喜びがないのはかなしい。だから原子論に偶然性を導入したエピクロスの欲望もなんとなくわかる気がする。「私」が「私」でしかない絶望は、「私」が「私」である喜びと表裏一体なのであって、畢竟突き詰めれば、結果オーライ、すべてが最善と思えるかどうかの問題でしかないのかも。

 すべてが最善(でしかない)とどこかで思っている自分は確かにいる。でもやはり同時に、偶然によって規定された現実を目の当たりにする時いつも、そうはならなかった別の現実の幽霊の気配を感じてしまう自分がいることもまた確かであるように感じられる。「私」がいない世界を想像することも、鳥としても在り得た「私」を想像することも、等しく異なる偶有性の世界への祈りであり、喪の態度なのだと思う。