クリスタルパレスのアリス

 二〇二〇年十二月十二日、ロームシアター京都ノースホール、スペースノットブランク『光の中のアリス』を観た。

 演劇を見るという経験を書くことのむなしさを噛みしめたうえで、あえて記録として記憶を記述してみたい。

 登場人物の名については表記が不明なため、便宜的に(主に)カタカナで記載することとする。本作の中で使用される名は固有名というよりむしろ象徴・記号的なものとして扱われており、非人称化の効果をわずかに含んでいるように思われるため、テクストとして名をいかに記述するかという問題の重要性はそれほど高いものではないと考えられる。ヒカリ(荒木知佳)は特に理由なくアリスでも有り得るし、ヒカリとアリスが明確に分化されているわけではないため、彼女は例えば突然ヒカリスと呼ばれても特に困らない。その様子はまるで生まれてはじめて鏡を見て、自らを世界-現実-他者から自立した個体として認識する前の幼児を思わせる。

 そう、鏡なのである。客席から見て舞台左手の壁面は一面が鏡となっている。鏡は、舞台装置として存在しているだけでなく、象徴的な次元においても機能していると言うことができる。鏡は光を受け、それを反射することによって、事物の形象をまるでその身に写し出しているかのように振る舞う。このように改めて語るまでもなく、光と鏡とはまるでひとつの装置の中で隣り合って作動するふたつの部品が如き密接な関係にある。ヒカリがアリスでもあることにあえて意味を見出すのであれば、この一点をおいて他にない。

 そんな鏡の対面、客席からむかって右側の壁面には、光、即ち映像が投影されている。そして客席と対面する壁の高い位置には四つのモニターが連なって設置されており、舞台上に存在する二台のカメラがとらえる映像をリアルタイムで映し出している。鏡と映像は、奥行きのある世界を模倣しようとする平面であるという点で類似している。鏡に向かって手を伸ばしても、はじめから存在しない「鏡の向こう」に広がっているかのように見える世界に触れることはできない。鏡は境界ではないし、境界ならぬ鏡の向こうに外部など存在するよしもない。鏡≒映像に囲まれた境界を越えて外に出ることは不可能なのである。ただひとり、アリスという例外を除いては。

 このような「鏡の国」の空間は、まるでクリスタルパレスを思わせる(本作中でその罪が揶揄される空間といえばディズニーランドであるが)。スローターダイクは、クリスタルパレスこそグローバル資本主義が構築・拡張する「世界」としての「内部空間」の物質的な隠喩であると論じた。ここで言う「内部空間」とは、「帝国」とも言い換えられる。それに対する「外部」は「周縁」であり、その境界は透明な境界線によって区切られている。ディズニーランドもまた自らから「外部」を排他的に切り離すことで、人間にとっての脅威から隔離された人工的な「内部空間」としてあると言える。

 本作の上演空間において、カメラは「外部」の事象を写さない。モニターに映るのは「内部空間」の映像だけであり、ゆえにその性質は鏡のそれに他ならない。ガラスの代わりに鏡で建築されたクリスタルパレスの中にあっては、もはや「外部」を見ることさえ難しい。そこで、カメラの代わりに「外部」のイメージを提示するのがバニー(矢野昌幸)やミニー(佐々木美奈)の台詞である。両者は、おそらく赤の女王?(小野彩加)らの命に従う形で、アリスを「内部空間」としての「不思議の国」に留めおこうと働きかける。この赤の女王と思しき存在は、上演中ずっと舞台上に立っているが、基本的に観客に背を向けたまま動かず、そして劇場の黒い壁に溶けこむような衣装も相まって、不可視の存在となっている。そのような見えない権力の声が、「内部空間」から外に出ようとするアリスの「首を刎ねよ」と命じる様は、キャロル的なナンセンスを超えて、もはやカフカエスクなものとなっている。そんな「内部空間」の権力関係の中で、「外部」の重力がいかに強く、その重さの中で生きてゆくことがいかに困難であるかを語るバニーらは、しかしアリスが再び「鏡」をするりと飛び越えて、「外」で生き始めることを願っているようにも見える。

 劇の冒頭から上演終了に至るまでの間、何度か俳優が舞台上から観客席を凝視し、こちらを指さすように手を伸ばしながら「アリス、アリス」と呼びかける演出がある。その声は、アリスとなってクリスタルパレスから脱出することを観客たちに求めているようにも見える。

 

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