毛玉集積場

 日記を別の場所に書いているということもあり、久しくブログを開いていなかったことに気づいた。これがSNSだと、久しぶりに開いて反応できていなかったメッセージに気づき、いや別にそれで慌てたり罪悪感を抱いたりなんてことはないが、でもやはりなにかすこし引っかかりが残ったりする、みたいなことがある。ブログにそれがないのは、ここが自分にとってはどこまでもひとりごとのための場所だからなのだと思う。

 ひとりごとは身体のどこか未知の器官に際限なく溜まっていってしまうから、ある程度排出しておかないといずれ調子が悪くなってくる。多血症の治療として瀉血するようなものかもしれない。とはいえ、猫の毛玉のようなものでしかないこれらのひとりごとをなんらかのまとまりに昇華しようという気にはどうにもならない。体内に長く残留した竜涎香のような言葉によって調合された香水のような文章を好ましく感じるからなのだろうか。いや、クジラの結石も猫の吐瀉物もそう大差ないものなのかもしれないが。

  

有罪者たちはみな踊る

2021/1/1(Fri)

 

 一昨日の晩は、友だちの家で鍋をしたあと、『闇動画』を観ながらコタツで寝落ちしてしまった。雪が降ったり止んだりを繰り返していて、頭痛がするくらいの寒さ。煙草を吸いにベランダに出るだけで、我ながら滑稽に思えるくらい大げさに震えてしまう。日中の光はしっかりとあたたかかったようで、夜のあいだ家々の屋根や街路樹や山の稜線を真っ白に染めていた雪は、目覚めた頃にはすっかり溶けていた。月あかりを反射して、ほのかに青白く光っていた雪。もはや夢の中の景色と区別がつかない。帰る前にしっかりとコタツでぬくもりながら、栗原康『アナキスト本を読む』を読み終えた。

 「アナキスト/本を読む」なのか「アナキスト本/を読む」なのか、実はまだ知らない。どちらも間違いではないのだろうとは思う。大杉栄伊藤野枝、一遍といった錚々たるアナキストらの評伝を手がけてきた著者による17年ぶんのエッセイ・書評・対談47本が収録された1冊だが、軽やかなノリがそのまま文体となっていて、すらすらと読める。とはいえ、文体の軽さだけが、この読みやすさを支えているというわけではない。文体の軽さ、そして字数の短さの中で、文章の「無駄」を排除せず、しかし消化不良感もなく、かつ冗長でもない、というのは紛れもなくある種の洗練に他ならない。


 「最近、わたしの友人のおおくが白痴になっている。もはや自分の未来を社会に役立てようなんて考えていない。無用者であることをいとわず、いつだってゼロからものを考えようとしている。ビールを飲む。白痴のからだから無数の酵母がわきあがってくる」(栗原、p59)


 白痴の発酵、そういった「無駄」にこそ社会の豊かさを見るべきではないか、と鍋をつつきながら、ビールを4本と、それからワインを飲んだ。決してアルコールに強くない自分としては暴飲と言える量だ。意識が凪いで、思考は減速し、言葉が加速する。やがてぬくぬくと糠床に沈んでゆくような穏やかな心地に包まれてくると、「意識」、「思考」、「言葉」と呼べるようなフレームがぐずぐずと崩れ落ちてゆくように思え、もはやどろどろのそれらから解放された身体は爽快な倦怠感に誘われるままに畳へと横たわる。あっ発酵している。眠りの中で思う。


 安藤礼二「(大杉栄の)その破壊は物理的なものであると同時に精神的なもの、自明の自分自身こそを打ち砕くんだということですよね」(同、p109)


 「支配するものをすべて壊す」思想がアナキズムであるなら、自らを支配する「自明の自分自身」こそをなによりまず壊さねばならない、栗原との対談の中で安藤はそう述べている。資本家を殴り、職場を焼き、仕事道具を燃やすだけではない。己を奴隷として日々しつけている自分自身を徹底的に壊すこと。

 本書には、著者による一遍の評伝『死してなお踊れ』を著者自身が評する文章が収録されているのだが、それを読んで「踊り念仏したい。めちゃくちゃになりたい」なんて言い始める私に「こちとら一遍じゃない、百万遍や!」と返してくれた友だちは、京都大学という糠床でいい感じに発酵したんだろうな、と思う。百万遍で踊り念仏。

 さらに読み進めていくと、年代順に編集されている本書の終盤、2020年以降の「ウィズコロナ」状況下で書かれたテクスト群は特にすごい。「不謹慎でヤバくて自殺的でダメなこと」(p248)だからこそカラオケに行ったりする。自己破壊の欲動、ニヒリズムのなせる業だ。ちなみに、『アナキスト本を読む』と並行して、ジョルジュ・バタイユ『有罪者:無神学大全』を読んでいるのだが、こちらもさすがのニヒリストっぷりを見せており、時折これら2冊の声が重なって聴こえてくるような気になったりするたのしい読書体験だった。未来のために現在の生を動員しないこと。企ての思考に陥らないこと。


 「私は、自分の気まぐれ、過剰さが、目的を持たないことを愛している」(バタイユ、p54)


 「私は記憶を失うことはないが、自分の悲しみを糧とする哲学者や呪われた詩人となる代わりに、ほとんど赤子のようになる」(同、p66)


 バタイユを読んでいたから、というわけでもないのだが、最近ずっと食べたくて仕方がなかったケーキを買いに向かう道すがら立ち寄った蔦屋書店で、偶然シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』が目に止まり、手に取った。いや、やっぱりバタイユを読んでいたから、しらずしらずにヴェイユが意識されていたのかもしれない。ヴェイユは、下手なアナキストよりはるかに怖い。未来も過去も、自分さえも捨てることをひたすら説いている。その苛烈さな純粋さに憧れると同時に、自分はヴェイユのようにはできないな…とかなしくなったりする。

 けっきょく読書納めは、笹井宏之『えーえんとくちから』になった。著者の死後、生前親密だった人々が出版した本。ヴェイユの著作もそうだった。偶然。

 そのあとは夜がきて、友だちたちとケーキを食べながら、だらだらと紅白を見ていた。テレビが流れているところでバタイユヴェイユを読むのはさすがに難しい。興味のないアーティストが出ている間だけ『えーえんとくちから』に目を落とす、ということをしていた。

 Perfumeもみたし帰るか…と帰宅してから、けっきょくなにか映画おさめらしい一本が観たくなったので、清水宏の『按摩と女』を観て、そしてバタイユを読みながら年を越した。残念ながら、年越し/年明けをなんだかんだとけっきょく意識している自分自身のことはまだまだ壊せそうにない。

アナキスト本をよむ

アナキスト本をよむ

  • 作者:康, 栗原
  • 発売日: 2020/12/16
  • メディア: 単行本
 

 

有罪者: 無神学大全 (河出文庫)

有罪者: 無神学大全 (河出文庫)

 

 

 

えーえんとくちから (ちくま文庫)

えーえんとくちから (ちくま文庫)

 

 

 

 

 

クリスタルパレスのアリス

 二〇二〇年十二月十二日、ロームシアター京都ノースホール、スペースノットブランク『光の中のアリス』を観た。

 演劇を見るという経験を書くことのむなしさを噛みしめたうえで、あえて記録として記憶を記述してみたい。

 登場人物の名については表記が不明なため、便宜的に(主に)カタカナで記載することとする。本作の中で使用される名は固有名というよりむしろ象徴・記号的なものとして扱われており、非人称化の効果をわずかに含んでいるように思われるため、テクストとして名をいかに記述するかという問題の重要性はそれほど高いものではないと考えられる。ヒカリ(荒木知佳)は特に理由なくアリスでも有り得るし、ヒカリとアリスが明確に分化されているわけではないため、彼女は例えば突然ヒカリスと呼ばれても特に困らない。その様子はまるで生まれてはじめて鏡を見て、自らを世界-現実-他者から自立した個体として認識する前の幼児を思わせる。

 そう、鏡なのである。客席から見て舞台左手の壁面は一面が鏡となっている。鏡は、舞台装置として存在しているだけでなく、象徴的な次元においても機能していると言うことができる。鏡は光を受け、それを反射することによって、事物の形象をまるでその身に写し出しているかのように振る舞う。このように改めて語るまでもなく、光と鏡とはまるでひとつの装置の中で隣り合って作動するふたつの部品が如き密接な関係にある。ヒカリがアリスでもあることにあえて意味を見出すのであれば、この一点をおいて他にない。

 そんな鏡の対面、客席からむかって右側の壁面には、光、即ち映像が投影されている。そして客席と対面する壁の高い位置には四つのモニターが連なって設置されており、舞台上に存在する二台のカメラがとらえる映像をリアルタイムで映し出している。鏡と映像は、奥行きのある世界を模倣しようとする平面であるという点で類似している。鏡に向かって手を伸ばしても、はじめから存在しない「鏡の向こう」に広がっているかのように見える世界に触れることはできない。鏡は境界ではないし、境界ならぬ鏡の向こうに外部など存在するよしもない。鏡≒映像に囲まれた境界を越えて外に出ることは不可能なのである。ただひとり、アリスという例外を除いては。

 このような「鏡の国」の空間は、まるでクリスタルパレスを思わせる(本作中でその罪が揶揄される空間といえばディズニーランドであるが)。スローターダイクは、クリスタルパレスこそグローバル資本主義が構築・拡張する「世界」としての「内部空間」の物質的な隠喩であると論じた。ここで言う「内部空間」とは、「帝国」とも言い換えられる。それに対する「外部」は「周縁」であり、その境界は透明な境界線によって区切られている。ディズニーランドもまた自らから「外部」を排他的に切り離すことで、人間にとっての脅威から隔離された人工的な「内部空間」としてあると言える。

 本作の上演空間において、カメラは「外部」の事象を写さない。モニターに映るのは「内部空間」の映像だけであり、ゆえにその性質は鏡のそれに他ならない。ガラスの代わりに鏡で建築されたクリスタルパレスの中にあっては、もはや「外部」を見ることさえ難しい。そこで、カメラの代わりに「外部」のイメージを提示するのがバニー(矢野昌幸)やミニー(佐々木美奈)の台詞である。両者は、おそらく赤の女王?(小野彩加)らの命に従う形で、アリスを「内部空間」としての「不思議の国」に留めおこうと働きかける。この赤の女王と思しき存在は、上演中ずっと舞台上に立っているが、基本的に観客に背を向けたまま動かず、そして劇場の黒い壁に溶けこむような衣装も相まって、不可視の存在となっている。そのような見えない権力の声が、「内部空間」から外に出ようとするアリスの「首を刎ねよ」と命じる様は、キャロル的なナンセンスを超えて、もはやカフカエスクなものとなっている。そんな「内部空間」の権力関係の中で、「外部」の重力がいかに強く、その重さの中で生きてゆくことがいかに困難であるかを語るバニーらは、しかしアリスが再び「鏡」をするりと飛び越えて、「外」で生き始めることを願っているようにも見える。

 劇の冒頭から上演終了に至るまでの間、何度か俳優が舞台上から観客席を凝視し、こちらを指さすように手を伸ばしながら「アリス、アリス」と呼びかける演出がある。その声は、アリスとなってクリスタルパレスから脱出することを観客たちに求めているようにも見える。

 

https://spacenotblank.com/performance/alice

偶有性の幽霊

 空を飛ぶ夢の中で私は自らが鳥であることを疑いはしない。では目覚めた「私」が自らを鳥でないと認識する時、鳥であったはずの「私」は消えてしまうのだろうか。

 人間として、このような形で生まれてきてしまったこと。そしてあらゆる偶然性の結果が積み重なった上にいま存在していること。それらの、「私」が「私」であるという偶有性は、数多の可能だったかもしれない別の「私」たちを消し続けている。

 消されているのは「私」たちだけではない。カメラが現実を撮影しようとした際、フィルムに写すことができるのは、「カメラがそこにある」ことの影響を受けて変質した「現実」ならぬ「現実」だけである。そこにカメラがなければ、そこに自分がいなければ、存在していたかもしれない「現実」。そんな偶有性の幽霊たちの気配がそこかしこに漂っている。

 バタフライ・エフェクトのように極端に単純化した偶然性の積み重ねでさえ、その背後に数えきれないほどの幽霊、生まれ損ねた「私」や「現実」が存在することは明らかだ。自らの羽ばたきが引き起こした竜巻の影響など、蝶には知る由もないのかもしれないが。とはいえ、デモクリトスの原子論のような、決定論的諦念に救いを見出すのもあまりに極端な防衛反応だろう。「私」は「私」でしかあり得ない、「私」がそこにいることも含めて「現実」は予め決定づけられている、と考えるのは、おばけなんていない、と否認する態度に近い。偶然なんてないさと言いながら、だけどちょっと僕だって怖いのである。

 確かに偶然は怖い。『チェンソーマン』なら偶然の悪魔はたぶんかなり強い。自らの能動的な行動、例えば努力など、とは無関係に、偶然的に「現実」はやってくる。スポーツ選手が競技とは関係のない事故で引退することもあるだろうし、煙草をやめた翌日にまったく別の病気で死んでしまう人だっているかもしれない。そのような、偶然性が無意味に作動する現実の空虚さに人々が飲み込まれずにいられるのは、どこか別の可能性への想像力をある程度のところで切断していて、その有限性の枠内で充足しつつ、異なる現実の幽霊のことを諦めているからなのかもしれない。

 決定論的な世界においては、人間の意志が介在する余地はなく、だからこそあの時ああしていれば、というような未練や後悔の不快から逃れることもできるだろう。でもそこに自由はないし、偶然性の喜びもない。友だちとの予定がドタキャンになったからなんとなく入ったお店でずっと一緒にいたいと思えるぬいぐるみと出会う、みたいな喜びがないのはかなしい。だから原子論に偶然性を導入したエピクロスの欲望もなんとなくわかる気がする。「私」が「私」でしかない絶望は、「私」が「私」である喜びと表裏一体なのであって、畢竟突き詰めれば、結果オーライ、すべてが最善と思えるかどうかの問題でしかないのかも。

 すべてが最善(でしかない)とどこかで思っている自分は確かにいる。でもやはり同時に、偶然によって規定された現実を目の当たりにする時いつも、そうはならなかった別の現実の幽霊の気配を感じてしまう自分がいることもまた確かであるように感じられる。「私」がいない世界を想像することも、鳥としても在り得た「私」を想像することも、等しく異なる偶有性の世界への祈りであり、喪の態度なのだと思う。

埋もれ木のゆくえ

 化石になる方法を考える。身体組織が置換されて、文字通り石と化すこと。アンモライトや、黄鉄鉱やオパールに置換されたアンモナイトの化石のことを考えると、宝石の身体になることも不可能ではないような気がしてくる。酸化鉄の赤が入った珪化木なんかも素敵だ。どうせならそういう石の身体になれるといい。

 すこし調べてみたところ、化石化のためには、大洪水に飲み込まれて一気に地中深くまで埋没するのが理想的なのではないかという考えに至る。低酸素状態で腐食を避けることができ、水が浸透し、他の生物の影響を受けにくい。

 分解され、単純な有機物・無機物となり、他の動植物に利用されるという循環。そういったサイクルから外れ、堆積する地層の中に埋没し、石になる。それは成仏みたいなものなのかもしれない。石になる前に、猿ヶ森ヒバ埋没林の埋もれ木を見に行きたい。

 循環のシステムはすこしおそろしい、そのことを時々思い出す。自然界に漏出したプラスチックはマイクロプラスチックとなり、それを例えば海洋生物なんかが摂取したりすると、やがて生物濃縮によって人間の体内に還りつき、蓄積されてゆく。平均的な米国人は一週間でクレジットカード約一枚分のプラスチックを摂取している、というのを読んだことがある。例えばわたしが海を漂ったらその身体は、海洋生物を通していずれまた別の人間を形成する物質として利用されたりするのだろうか。では、わたしの身体を形成しているこれら諸物質は、どこからきたのか。人間も石もその途方もなさと不気味さにおいて大差ないなと思う。

 大洪水が飲み込んだものはいま、循環しているのか、埋没しているのか。いずれにせよ、それとわかる形で再会できることはおそらくないのだが、気づけばまたその行方を想像してしまっている自分がいる。

欲望と、そのあいまいな対象たち

 双葉断層を見に向かう途中、自動販売機があり、そこに鬼滅缶が売っていた。中生代白亜紀の地層と鬼滅の刃が空間的に近接していることに、すこしの面白みと絶望を感じながらコーラを買った。いまになって思い出そうとすると、なにか見たことのない種類のコーラだった気がするけど、どうにも鮮明に思い出すことができない。味もベタベタと甘くて未知のおいしくなさだったような。

 わたしの眼は鬼滅缶を買いたがり、指も強いては反対せずそのまま鬼滅缶のボタンを押そうとしたのだが、わたしは鬼滅缶を買いたくなかった。身体に買わされている感がイヤ。ふと、目が見えないひとはコンビニで衝動買いをしないらしい、という伊藤亜紗の本にあった話を思い出す。

 イメージの快楽に買わされているな。コンビニ、山手線の車内、スマホの画面の中、それに双葉断層近くの自動販売機、どこを見ても視線の先には視界的快楽としてのイメージが待ち構えていて、欲望せよ、消費せよ、とこちらに語りかけてくる。広告や商品が見えなくなる眼鏡があったら快適だろうか、とか考えて久しぶりに『ゼイリブ』(ジョン・カーペンター監督/1988年)が観たくなる。これも眼差しの欲望。

 鬼滅缶みたいに他者が欲望するものを欲望するという心理はメディアやICTによって強化されるし、Amazonに至ってはわたしが欲しがっていないものをわたしの欲望としておすすめしてくる。他者の欲望と自分の欲望を切り分けて考えるには両者は渾然としすぎていて、自分の本当の欲望なんてものは正直わからないのだけど、鬼滅缶よりもおいしくないコーラのほうが飲みたいという欲望くらいはちゃんとわかっておいてあげたい。

 欲望といえば、ここ最近ずっとなんかタンザニアに行きたいなというふわっとした欲望を抱えている。観光したいという欲望は不思議だ。わたしがタンザニアに行きたいと思ったきっかけは小川さやかの本を読んだからなのだが、人類学の本を読んで逆カルチャーショックを受けた経験から、そこに行きたい、という欲望に繋がる回路が我ながらよくわからない。

  奥野克巳の本を読みながら、プナンのひとたちは観光の欲望を抱いたりするんだろうか、とか気になったのを思い出す。

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

  • 作者:奥野 克巳
  • 発売日: 2018/05/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  タンザニアのことを知らなければタンザニアを欲望することはなかったし、そもそもタンザニアがなければタンザニアを欲望することはできないのだな、と当たり前のことをなんとなく奇妙に思う。タピオカとかすごいな。キャッサバの根茎から抽出した澱粉を粒状に加工して飲み物に入れようとか、複雑怪奇な欲望だと思うし、それが流行っているのもすごい。まあおいしいしな。タピオカという言葉の響きというか、口に出すことの気持ちよさみたいなのもすごい。パピコとかと同じ快楽がある。パイナッポーアッポーペンとかも流行ってたし、パ行を言いたいという欲望がひとびとの中に強くあるのかもしれない。パラサイト、ポンジュノ。

 さっき(二週間前)ナポリタンを食べた海沿いの喫茶店の店主さんが、お客さんと話す中で「ここも一応観光地なんだけどね」と言っているのが聞こえてきた。どういう文脈かぜんぜん把握していないのだけど、確かに観光地であるはずのこの街には明らかに観光客がひとりもいないし、というか数時間散歩していても片手で数えられる程度しか人間に遭遇していない。たぶん人口密度より鳥口密度のほうがはるかに高い。鬼滅の刃が流行りまくっている一方でまったく欲望されていない観光地はたくさんあって、そしてどの観光地にも鬼滅缶を売る自販機はちゃんと置いてあるのだろうなと思う。

マフラーを捨てて旅に出ることのできない孤独のやさしくなさ

 互酬性、贈与交換、あるいはそのサイクルの中での滞留。そういった循環の論理から外れること。所有せず、競わず、争わないこと。そういうことばかりを最近は考える。

 こないだ新文芸坐で観た『冬の旅』(アニエス・ヴァルダ監督/1985年)はブルジョワジーとかプロレタリアートとかそういう階級の構造、資本主義的な互酬性の構造を逃れてさすらう旅人の映画なのだけれど、システムから外れた彼女はどこに行っても、誰からも受け入れられない。親密になり得る誰かと出会えても、返礼は当たり前のように期待されるし、ただそこに定住することは許されず、疎外され、そしてまた旅に出ることを繰り返す。土地の見返りに労働を、金銭への見返りとして身体関係を期待されたりする他者との関わりの中に実は愛なんてないのかもしれないし、その孤独に気づいてしまった人間は旅人になるしかないのかもしれない。彼女が信頼しかけていた相手は、しかし結局システムの中での安住をとり、そのために彼女を追い出すことを選んだりする。そんな彼からもらって、大切そうに巻いていたマフラーを、鎖でも引きちぎるかのように捨てた旅人はどれだけ寒かっただろうか。旅人が定住できる場所なんてどこにもなかったとしたら、あったとしても見つからなかったとしたら、寒さに震えながら途上で死ぬしかないのかも。だから、中庸を選んでしまうひとのことも否定しようとは思えない。

 それがポジティブなものであれネガティブなものであれ、互酬性の思考はわたしたちの文化に深く浸透し、規範として内面化されている。贈与は結局のところ純粋な贈与でなく、交換の論理に則っている場合がほとんどだし、資本主義の原理である等価交換は経済活動ならぬ日々のコミュニケーションにまで侵食している。互酬性の論理が過剰になれば、時に交換は競争に、そしてやがては戦争めいたものになりさえするだろう。返礼を前提とする贈与の構造は、LINEのトーク画面にだって転がっていてありふれているし、だから既読無視なんて言葉が咎めるようなニュアンスで使用されたりする。

 わたしが誰かにやさしくしたいと考える時、そこに好意という返礼を期待する欲望はないだろうか。誰かの言葉や行動がきっかけで傷ついたと感じた時、それとなく報復の声音をとってはいまいか。誰かにメッセージを送るとき、期待している返事がはじめから自分の中にあるのかもしれない。あまりにも強固なリアリズムとして社会構造を形成しているように思われるこうしたシステムから、改めて距離を取る必要などあるのだろうかと未だに迷ってもいる。思考と行動の統御が崩れて泥沼化するだけでは、とも思うし、実際どのように他者に接したらいいのかわからなくなってきている最近である。

 いや、自分の欲望と他者の欲望の不一致が相手への重荷となることを嫌うなら、他者を欲望すること自体から距離をとればいいのだと、とっくにわかってはいるのかも。ベリベリと快原理を引き剥がして透き通った身体になることがやさしさなのかなとか思うとInstagramやLINEやTwitterやブログのアカウントを消したくなったり実際たまに消したりするのだが、結局すぐまた他人の視線が欲しくなって生き返ってしまうし、欲望されることを欲望してしまう不自由のほうがやさしい孤独よりも心地よくぬくぬくしているのがたまらなくかなしい。好きなひとからもらったマフラーを捨てて家出する寒さの中にしか旅人の自由はないのだろうか。