マフラーを捨てて旅に出ることのできない孤独のやさしくなさ

 互酬性、贈与交換、あるいはそのサイクルの中での滞留。そういった循環の論理から外れること。所有せず、競わず、争わないこと。そういうことばかりを最近は考える。

 こないだ新文芸坐で観た『冬の旅』(アニエス・ヴァルダ監督/1985年)はブルジョワジーとかプロレタリアートとかそういう階級の構造、資本主義的な互酬性の構造を逃れてさすらう旅人の映画なのだけれど、システムから外れた彼女はどこに行っても、誰からも受け入れられない。親密になり得る誰かと出会えても、返礼は当たり前のように期待されるし、ただそこに定住することは許されず、疎外され、そしてまた旅に出ることを繰り返す。土地の見返りに労働を、金銭への見返りとして身体関係を期待されたりする他者との関わりの中に実は愛なんてないのかもしれないし、その孤独に気づいてしまった人間は旅人になるしかないのかもしれない。彼女が信頼しかけていた相手は、しかし結局システムの中での安住をとり、そのために彼女を追い出すことを選んだりする。そんな彼からもらって、大切そうに巻いていたマフラーを、鎖でも引きちぎるかのように捨てた旅人はどれだけ寒かっただろうか。旅人が定住できる場所なんてどこにもなかったとしたら、あったとしても見つからなかったとしたら、寒さに震えながら途上で死ぬしかないのかも。だから、中庸を選んでしまうひとのことも否定しようとは思えない。

 それがポジティブなものであれネガティブなものであれ、互酬性の思考はわたしたちの文化に深く浸透し、規範として内面化されている。贈与は結局のところ純粋な贈与でなく、交換の論理に則っている場合がほとんどだし、資本主義の原理である等価交換は経済活動ならぬ日々のコミュニケーションにまで侵食している。互酬性の論理が過剰になれば、時に交換は競争に、そしてやがては戦争めいたものになりさえするだろう。返礼を前提とする贈与の構造は、LINEのトーク画面にだって転がっていてありふれているし、だから既読無視なんて言葉が咎めるようなニュアンスで使用されたりする。

 わたしが誰かにやさしくしたいと考える時、そこに好意という返礼を期待する欲望はないだろうか。誰かの言葉や行動がきっかけで傷ついたと感じた時、それとなく報復の声音をとってはいまいか。誰かにメッセージを送るとき、期待している返事がはじめから自分の中にあるのかもしれない。あまりにも強固なリアリズムとして社会構造を形成しているように思われるこうしたシステムから、改めて距離を取る必要などあるのだろうかと未だに迷ってもいる。思考と行動の統御が崩れて泥沼化するだけでは、とも思うし、実際どのように他者に接したらいいのかわからなくなってきている最近である。

 いや、自分の欲望と他者の欲望の不一致が相手への重荷となることを嫌うなら、他者を欲望すること自体から距離をとればいいのだと、とっくにわかってはいるのかも。ベリベリと快原理を引き剥がして透き通った身体になることがやさしさなのかなとか思うとInstagramやLINEやTwitterやブログのアカウントを消したくなったり実際たまに消したりするのだが、結局すぐまた他人の視線が欲しくなって生き返ってしまうし、欲望されることを欲望してしまう不自由のほうがやさしい孤独よりも心地よくぬくぬくしているのがたまらなくかなしい。好きなひとからもらったマフラーを捨てて家出する寒さの中にしか旅人の自由はないのだろうか。